| 今週は、浜松国際コンクールの1次予選を見に行ってきた。 これは、友人に頼まれたピティナの浜コンを聴く会の座談会に出席する為でもあった。 東京を早朝の8:00の新幹線で熟睡しながら浜松に9:30に到着した。 10:00の開演に何とか間に合った。 その日は予選3日目、会場に行くと、そうそうたる超有名な先生方が、そこかしこにいらっしゃるではないか?ちと緊張である。 1次予選は、バッハ平均律とクラシック期の作品と自由曲。 我々がレッスンで普段使っている曲が演奏される上に、世界のレベルが間近に聴けるので、とても嬉しいし、勉強になる。 お昼をはさんで、2:00まで約8名の演奏を聴いて、帰らねばならないのが残念でならなかった。 様々な演奏を聴け、楽しく席を立ちたくなかったからだ。 興味深かったのは、バッハの解釈である。 これ程深遠なバッハは無いと思えたのは、やはりロシア人のバッハであった。 ハーモニーの素晴らしさに酔って、精神的な高みを感じずにはいられなかった。 クラシックでは、モーツァルトのソナタやベートーベンのソナタで、まるでピティナE級F級ランクの演奏も少なくないから、日本のレベルの高さは、世界のレベルに容易に達しているのが分かる。 ところが、自由曲の幅の広さ、層の暑さ、ダイナミックさ、自由奔放さとなるととても叶わない。 日本人の所謂、ガリ勉タイプのピアノでは、到底追い付かないレベルだし、大きく引き離されているのを感じる。 魅せるといった言葉が妥当だろう。"音楽ってこんなもんだね"みたいにピアノの上を縦横無尽に踊る様に指が動く。 圧倒する演奏スタイルに脱帽である。 日本の音楽界の方向性は、決して悪くは無いと思えたが、応用編となるとまだまだという感じである。 この違いは一体何だろう?音楽のリズム感、躍動感、騎馬民族と農耕民族の違いだろうか? バッハの深遠さは宗教のちがいだろうか? 赤ちゃんが1歳になる前に外国に行くと、巻き舌で発音するのに違和感を覚えないそうだが、その辺なのだろうか? フレーズ感の大きさ、ハーモニーの深さ、リズム感には努力しても叶わない何かを感じた。 しかし一方で、日本人がある程度のレベルに十分に達しているのだという事を感じたから、日本人も捨てたものでは無いので.....。 1次予選を聴け、刺激を受けたので、是非2次3次を聴いてみたいと思った。 浜コンに平行して、うちの教室も秋のコンクールが目白押しだった。 毎コン、クラコン、教育連盟、ショパコンと秋の陣が続いている。 その間、夢コンのテープ審査用のテープを作ったり、大忙しである。 秋のコンクールの悩みは、夏のコンクールが終わった直後、"次も頑張る"と元気良く申し込んだものの、9月は学園祭、体育祭だ、部活の発表会だ、はたまた修学旅行があり、合同陸上大会の練習に駆り出され、子供は大忙しで、お疲れである。 こっちはピアノを教えるのが仕事だから、夏の疲れも取れ、元気というのに子供達は 夏休みの方がずっと集中力があるわけで、ひたすら時間が無意味に流れ、最後の1週間のラストスパートに突っ込んでいくというパターンがほとんどである。 いわゆる、危機感を持たずにその日を迎えてしまうのだ!! 結果は火を見るより明らかなのだが、中にはラストスパートを上手くかけ、勝ち抜く子もいるから、人生は平等なのか?不平等なのか?複雑な気分である。 無い時間をやりくりして、ピアノに割いて頑張った子に、どう声を掛け、慰め、励まそうか?思案に暮れる。 結局はいつも同じ事だが、結果ではなくプロセスなのだ。 如何にその曲に深く向き合い、考え、勉強したか。これに尽きると思う。 そんな事を生徒の親に話していたら、その晩"のだめカンタービレ"でシュトレーゼマンが本番を前に上手く弾けるか?緊張している千秋に同じ様な事を言っていたので感動してしまった。 「千秋くん。当然です。あなたは、あなたの好きな様に弾くのです。大切な事は、あなたがこの曲と今までどう真剣に向き合ったか?という事です。」 そうなのだ、勉強とはそういうことなのだとつくづく思う。 たった数十小節のやさしい曲ほど難しい事は無い。 形がシンプルで、音の多くない曲は、左右のバランスを取りながら、表現を嫌味無く、美しく、弾く事を考えてしまったら、一音一音硬くなってしまう。 どう最初に自分が感じて、弾きたかったのかさえ分からなくなってしまう。 悩んで、悩んでやっと仕上げて、自分のものにして演奏したのに、所詮それ程、評価されないのが、この世界である。 大切な事は、この曲とどれだけ真剣に向き合ったかという事なのだ。 人生しかりだ。人間は100%死ぬ。誰でも死ぬ。 大切な事は、どれだけ長く生きたか?なのではなく、どう生きたか?だと思う。無駄な事は1つも無いのだ。ひたすら、前に進むだけなのだ。 1つの事に真剣に向き合う事。それはピアノだけで無く、全てに共通していると思う。 何事も中途半端で無く、とことんやるという事だ。 努力をせず、投げ出したり、諦めたりする事は言語道断である。 勝つ事を目標にする事は、そのプロセスを更に充実させる為の手段だという事、自分を高める為の手段だということを分かって望まない限り、結果に振り回され、プロセスの意味を失うことになると思う。 特に明確な答えの無い音楽の世界では、その辺をしっかり理解していないと大変危険だと思う。 シュトレーゼンの言葉がよみがえる。 「さあ、楽しい音楽の時間です。」 コンクールで自己鍛錬をし、本物を目指しながらも、究極的には人間として強く、そして、音楽を愛する子供達を育てたいと思う。 日本の浜松に集った世界の若者達も、自分の可愛い小さい生徒達も同じなのである。 2次予選に残るのは、どれだけの人数だろう!と思うと、浜コンも過酷な、国際的なサバイバルゲームの様な気さえする。 |
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