| 今週末はクリスマスだった。 それと同時に、25,26日はカワイ音楽コンクール藤枝地区と静岡地区予選会があり、その上グレンツェン・コンクールの本選会が、名古屋と東京であったから大忙しだった。 ただでさえ忙しいのに、1年で一番夢のあるはずのこの1週間は、何だかあっという間に過ぎてしまった。 その中で唯一救いだったのが、肝心の受験生たちが各々冬季講習に出かけていたことだった? 専念するはずだった家庭の主婦も、結局付け焼き刃にならざるを得なかったし、ケーキも予約し忘れて、主人に出張の帰りに買ってきてもらう羽目に...。 希望としては、本当は、行列のできる限定販売のクリスマスケーキとやらを食べてみたかったのだが、仕事で往復するのがやっとの東京で、ましてクリスマス前日にケーキを東京まで取りに行くなど無理なので、雑誌を見てはどんなケーキだろうと空想をふくらませながら、普通の神戸屋のケーキで我慢する私だった。 それでもケーキが買えただけ、「良し」としよう。クリスマスはやっぱり丸いケーキを買って、皆でお祈りをしてこの一年に感謝して、ロウソクを消す。これをやるのが昔からの定番。わが家流なのだ。 息子がミッション系のスクールだったので、お祈りは息子にやらせたかったが、今では「すっかり忘れた」と罰当たりな事をいう。 その代わり、昔上智大の寄宿舎になぜかお世話になった事のある私は、ちゃんとお祈りが丸暗記出来るのだ。 なんせ学生の頃、シスターに生け花を習い、ついでに入信させられるべく教義を受けたという身の上なのだ。 しかし不勉強で、洗礼までには至らなかった、という変わった過去のもの持ち主なのだが、それでもそのおかげか、神様は私の中にいつもいる。
 
なんと韓国の「冬のソナタ」の主人公 「チュンサン」から来たクリスマスカード にびっくり!! お宝に!
 
ハンガリーリスト音楽院の ナードル教授から頂いた クリスマスカード。 いつもながらマエストロの お心遣いに感激。

この2枚以上に、一度ピアノを練習嫌いでやめた生徒Mちゃんが再開を記念してくれた クリスマスカード。 なにより嬉しかったです。
問題のカワイ・コンクールだが、藤枝では90名以上、静岡は50名ほど参加した。その中で入賞して、名古屋本選に行けるのは、藤枝では小学生が3名、静岡では2名、中学生は1名のみだが、今年も例年通り、出場した子、各々全ての代表に選ばれた。 (詳細は2004年度成績表を見て下さい。) グレコンもトロフィーを前回より大きくして、各自が貰うことが出来たようだ。
我が家のクリスマスパーティーは、タイミングがずれ、チキンの丸焼きの焼き上がりが間に合わず、家族を待たせたのが悔しかったが、コンクールの結果は私にとって最高のプレゼントだった。 コンクールに参加した全ての子の笑顔が、何よりのクリスマスプレゼントだったからだ。 26,27日に東京レッスンをして、クリスマスツリーを片付けたら、今年は終わりといきたいところだが、受験生と年明け早々のピティナのコンチェルトが待っているから、のんびりもしていられない。今度は大掃除バージョンでレッスンだ!! もちろん、昨年からチャレンジしているお節料理も作らなくては。 なんたって主婦業は、私にとって最高の気分転換なのである。 あと数日で今年も終わる。来年は3月27日に東京での第1回目の発表会。4月2日は藤枝での第19回目の発表会が控えている 曲選びでは、例年の如く頭を痛ませている。 (これについては後で、エッセーで少し触れるので読んでほしい。)
今年のダイアリーもこれで終わってしまいます。 いつも長い文章を読んで下さっている読者の皆さん有難うございます。 来年も宜しくお願い致します。 |
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| 年末になって変わったことというと、いつも忙しく、 コマの様にくるくる回っている身の上なので、これ以上高速回転は出来ないので、同じなのだが、やはりクリスマスはクリスマスらしく、過ごしたり、年末は年末らしく、お正月はお正月らしく、まあ家庭画報に出てくる様に、優雅にとは行かないまでも、プレゼントや年越しをそれなりに家族と味わいたいと思う。 そういう役目は女である主婦が、担っていると思うし、季節感を大切にするということは、子供たちや家族にも生活のゆとりとしてよい影響をもたらすと思うので、それなりに、無い時間をやりくりしてあれこれと考えるのが楽しい時期だ。 そんなときお手本になるのは親友だ。 彼女とは、息子が幼稚園の頃から、母親同士としての友人だから、気心も知れているので、忙しく音信不通になりながら、つかず離れずいつも忘れずにいる、ピアノ以外の唯一の友人だ!! 料理上手もさることながら、そのインテリアの趣味、洋服のセンス、生活スタイルは家庭画報並みなので、いつもそばにいるだけで刺激になる。 だから、インテリア、掃除や料理、おしゃれにやる気を失うと、会いに行ってはまたやる気を貰ってくる。 この間、彼女の家でクリスマスパーティーをした。手作りのケーキと料理でもてなしてくれた。私も得意のパスタ料理を家から運んで、ひと役買った。優雅なひとときで本当に楽しかった。 私も仕事を離れたら、真っ白な食器によく磨かれたカトラリーに、素敵にアレンジしたクリスマス用のテーブルクロスで、友人をもてなしたいと思うが、こう忙しくてはとても無理だ。 ああ優雅な時間が欲しい!(しかし、結局時間があったら昼寝してるかもしれないのだが) 年末年始になると、家庭回帰欲が復活だ。 先日のお料理教室では、お正月懐石料理を習ったが、素晴らしく美味しかった。 こんなお料理で、お正月に皆をもてなしたいが、実験する暇がないと、いきなり本番で失敗しそうなので怖い。 器も吟味され、全てのものが本物で素晴らしい。器を選びながら買い物なんかも、優雅にしたいと思う。
今週の感動したこと @お歳暮に戴いた、活きた「伊勢海老」。自分で茹でて、そのおいしさに感動!! A久しぶりに行った立川グランデュオの陳健一の麻婆豆腐は、やっぱり日本一おいしい!! B東京の父兄と忘年会で行った、銀座キハチチャイニーズのおいしかったこと。これで2千円は安いよ!! C友人と行ったクリスマス会を兼ねての昼食会。新橋の京懐石料理「虎夢」、最高!! なんだか食べる事ばっかり...。 私の中での食べまくりの忘年会だ。(神様もこのくらいのぜいたくはお許しになるだろう) |
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| 今週末は、お嫁さんの実家で法事があった。 昨年暮れ88歳で亡くなった、お嫁さんのおじいさんの一周忌法要である。 ちょうど1年前、私達が息子たちの結婚のご挨拶に伺った時は、体もお弱くなっていたものの、まだお元気そうだったのに、それからあっと言う間で、たった1度お目にかかったきり、結納の朝倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったので、息子夫婦の結婚式も見せてあげられなくて本当に心残りだった。 お嫁さんの実家は、浜松で19代も続く旧家の本家なので、冠婚葬祭となると大事である。 法事に50人ほどの人が集まり、家からお寺へとバスで大移動である。 お寺のお坊さんも、「これだけの人数がお集まりになる法事はめったにありません」とひたすら驚かれる。 私はといえば、主人も私の両親も健在だし、次男と三女で気楽な立場の核家族。法事はおろか葬祭事は本当に初めてだから、何も分からず、お嫁さんに何から何まで聞いてばかりである。 法事に行かれた事のある方ならご存じだろうが、お坊さんがまず自宅の祭壇にお経を上げるのだが、それに合わせて「はんにゃー・はらみーたー」と皆で経文を唱えていく。 その間にお坊さんの説法があるのだが、なぜかこの説法が心に一つ一つ残った。 「88歳といえば大往生です。今は30代40代でもバタバタと亡くなっていかれます。 しかし人はいずれ亡くなるのです。オギャーと生まれたその日から、人は死ぬその日の為に、一歩一歩、皆で行進しているのです。 それは誰にも止められません。若い時は1日が長かったのに、年をとると1日があっという間ですね。これはそれだけ1日になすべきことが多く、責任の多い1日だということなのです。 あれもしなければ、これもしなければという様に追われて、毎日時を過ごしていく。 そして一日一日こうしている間にも、死は確実にやってくるのです。 人は生を受けたその日より、『死』というタイマーのストップ・ウォッチが押され、カチコチ・カチコチと時を刻んでいくのです。 大切な事は、『決して死という現実から目を反らしてはいけない』という事です。 死を踏まえ、一歩一歩前に進むのですが、決して自分の歩いてきた道を汚してはいけません。常にきれいに掃き清めて生きてください。必ずあなたの生き様を、後ろから続くあなたの子や孫があなたの背中を見ていますよ。」 (私は素直なのかタイマーのカチコチも同様だが、この言葉は非常に恐ろしく感じられた)
お坊さんが、こうしてしみじみと話されると、真に迫ってくるではないか! 死ぬ事は分かっているのに認めたくないし、忘れていたい。頭の片隅から追いやって、毎日ただひたすら一生懸命に生きている自分がある。風邪でもひいて熱でも出ると、親の事や自分の今までのあり方にふと気づくのだが、1日寝て直ってしまえば、また元の黙阿弥、爆走してしまう。それを人はエネルギッシュでうらやましい、と言ってくれるが果たしてこんなんでいいのだろうか?とうなだれてしまった 今回の法事で改めて『生きる』という意味について考えてしまった。 今回お坊さんはもとより仏教そのものについて、興味がかなりあった。 その訳は、長くなるので、エッセイでお読み下さい。 |
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| 12月に入ったというのに、コートがまだ要らないから地球温暖化が進んでいるのだろうか? 寒いと「寒い寒い」と言い、寒くなければ「冬らしくない」と思うのだから、本当に人間とは身勝手なものだ。 最近は1年があっという間だ。この間クリスマスツリーをしまったのに、もう出さなくてはならない。 私はインテリアが大好きで、若い頃インテリア雑誌を読み、家の中を飾るのが大好きだったが、仕事が忙しくなったのと趣味も変化するのが分かり、あまり細々したものに興味が薄れた。 掃除も出来ないし、今はすっきりしたインテリアが好きで、飾るものは吟味したものを1つ置くというこだわりに変わりつつある。 それでも他人から見ると、ごちゃごちゃといろんなものが置いてあるように見える筈だ。 イギリスのアンティーク風からアーリーアメリカン、フランスの田舎のプロバンス風とインテリアの趣味も、次々と私の中で変遷を重ねた。その名残があちらこちらにあるが、今は何もないすっきりした家に、ひたすら憧れているから不思議だ。 暖炉のある暖かい家庭が夢で、暖炉も作ったが、 のんびり暖炉の前に座る所では無く、ピアノの椅子に座ってばかりだから皮肉なものだ。
さて今週は、生徒の親に借りた"ピアノへ"という本を読んだ。 谷川賢作が監修した本で、"10人のピアニストたちが語る20世紀の名盤"、"そして私がピアニストになるまで"といううたい文句で、山下洋輔,矢野顕子,小山実稚恵,舘野泉らジャズ・ピアニストからクラシック・ピアニストに至るまで、なぜピアノの道に進んだかをエッセー風にまとめたものだ。 今をときめくこの世界の一流のピアニストらが、どんな風に幼少の頃ピアノと関わって、音楽を一生の友としてきたかを知ることが出来、とても面白かった。 最後に彼らの一生を左右した1枚のレコード,CD他の紹介があるので、また興味がそそられた。 この本は返したら、自分でも一冊買ってみようと思う本だった。 ピアノを習うきっかけはそれぞれだろうが、大した理由もなくやめてしまった子供と、ピアノの落ちこぼれだった子供が、何気なく続けていくうちに世界的なピアニストになったということが、本当に紙一重であり、そしてそれが本当に些細なきっかけであり、指導者に大きく起因していることが共通点だ。 生まれた時から、"親がピアニストで大学教授だった"などと恵まれた環境で育てられたとは限らないことが面白いし、常に回りの者が重要なカギを握っているかが身につまされる。 この本を監修した当の谷川賢作自身も(あの詩人谷川俊太郎の息子であるが)ピアノが嫌いで小五の時にやめたと書いてあったくらいだ。最近(これも父兄から借りたビデオだが)谷川俊太郎と谷川賢作が、"詩は音楽に恋してる"という題名で、父の読む詩に合わせ、バックでピアノを奏でるという講演会を、学芸大学付属小でしていたのを見たので、彼自身の事も興味を持って読んだが、その昔ピアノ嫌いでやめた少年が、どんなふうに音楽に再会したのかというくだりが面白かった。 その他のピアニストのエピソード、例えば山下洋輔は、
『とにかく僕はいやがった。ここが第一の分かれ目だったと思うんです。そのとき非常に素直に、「ハイ、お母さんわかりました」と言って、楽譜との対応をきちんと覚えてレッスンに入っていく子は、将来ちゃんとしたクラシック・ピアニストになるんじゃないでしょうか(笑)。僕はそこで拒んで、親を困らせた。ドはこれなんですね、と楽譜を読んだり、一つひとつバイエルを仕上げていくなんてことは、どうしてもイヤだった。もしかしたら、それをいつも身近で見ていたからかもしれません。で、母親は結局、教えるのを諦めたんです。』
また矢野顕子は、 『好きなようにひく、とにかくそれが一番好き。ピアノの先生は私のそういうところをよくわかっていてくれて細かく注意しなかったんですね。どうしてもそうなっちゃうんだから仕方ないことだと、高学年になるとおさらい会の曲とか覚えるのが面倒くさくなっちゃって。 最初の3ページくらいまでは覚えるんですけど、後はもう、どうでもいいやって。そろそろ終わるかなー…って終わらせちゃう、とか平気でやってました(笑)。 その頃までには、もう完璧なラジオ少女。 あ、こういう音楽があるんだーって鼻歌で聴きながら、「もしかして、これって、あたしじゃん!」(笑)。ラジオから流れてくる曲に、私の世界がありました。』
三柴理は、 『最初はピアノが嫌いだったんです。なかなか教えられたように弾けないじゃないですか。今弾いている曲が10回つっかえないで弾けたら、次の曲に進もうと思って頑張っていると、9回目に問違えたりする。ああ!と涙が出て……悔し涙がね。そうやってずーっと練習してるわけです。 それに、僕は厳しい先生が苦手。最初の先生がすぐに、ぶつんですよ、「またそんな手の形で弾いて!」バコーン!!って感じで。それで嫌になっちゃって「やめます」って言ったんですよ。そしたら先生、「もったいないから続けたほうがいい。三柴君は哀しい小曲に、気持ちを入れて弾けるから」って。うーん、実際涙ながらに弾いてたし。で、ピアノは続けるけど先生は替えることにしました。優しい先生に習うと、弾く曲弾く曲どんどん花マルがもらえて進んじゃう。そのうち先生がもっと上手になるようにって、新しい先生を紹介して下さるんだけど、それがまた厳しい先生だと辛くなっちゃって……。そんなこんなで小学生の頃は先生を転々としまして、最後にたどりついたのが安川豊子先生なんです。』
こんな調子だ。今をときめく音楽会のホープも、小さい頃はピアノ嫌いで親を困らせていたのが面白い。 そして彼らの才能を開花させたのが、ほんの小さな好奇心とキッカケだったりするのだ。 そして回りが、その小さな個性の芽を摘まなかった事が、人生を左右したのだ。 "たかがピアノ、されどピアノ"今は劣等生でも可能性を秘めた天才がそばにいるやもしれないと思うと、練習という同じ木枠にガチガチにはめ込み、音楽嫌いにさせてはいけないんだなと教育者としては改めて身につまされた本であった。 『うちの子に限ってそんな天才なわけないし、大体ろくにピアノをも弾かないんだし』と、そんなふうに思ってはいけないのだ。 あなたの隣にいる子は天才かもしれない。 そう信じて育ててあげたいものだと思った。 |
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| 今週は、殆ど体調を崩して、薬ばっかり飲んでいた。 めったに体調を崩さないのに...。その理由は、不規則な食生活に起因しているせい大である。 というのも、うちの主人は海外出張が多く、月の半分はいない。そこへもってきて日本にいる日も出張と飲み会が多くて、家でほとんどめったに食事をしない。 カレンダーに2人で食事をした日をつけていたら、11月は30日中9日間だけだった。 そうなれば、笑顔マークで正々堂々主婦返上もいいところである。という訳で大久保で買った大瓶のコチジャンを抱え、大好きなキムチチゲ他、豆腐チゲばかり作って、手抜きプラス偏食三昧していた。 時折、お肉が食べたくなると、誘われたランチで栄養補給という訳で、最近はいつもごちゃごちゃしていた冷蔵庫内を、いかに美しく何も入っていないようにするかを楽しみにしていた訳なのだが。 こんなことで健康に陰りが来たさない訳がない。偏食によるストレスの為の"ドカ食い"がたたり、胃痛で胃薬を飲み、それでも治らないから2日間絶食していたら、"風邪菌"を貰い発熱と言う有様。週明けには東京で"ウンウン"うなっていた。 私の母は、栄養にうるさい人で1日50品目を食べることを目標に、食後にフルーツ各種を持って、追っかけてくる様な"健康オタク"だったので、年を取ったとはいえ、この娘の行状を知ったら嘆くだろうな!と、気弱になると母親の姿がまぶたにチラツキながら熱にうなされていた。 "ああやっぱり健康だ!!"これからはきちっとした食生活をしなくてはいけないと実感した。 今週はそんな調子だったのだが、週末、生徒(教え子)の結婚式が焼津のホテルであった。 彼女は、中学生の時からの生徒で、東京音大に進んだ後、カワイの講師を主にしながら、ピアノ教師をして地元で活躍していた。 いつも私を頼ってくれ、卒業しても仕事の悩み、恋の悩みを打ち明けてくれていたから、親というより友達感覚でずっと付き合っていた。 講師会の発表会が近付くと、レッスンをみてあげたりもして、時には先生として、友人として、親として付き合ってきたので、結婚式は感慨無量だった。 彼女が、ヴァージンロードをお父さんと歩いてくる姿を見ると、いろいろな事が思い出され、もう涙がこぼれ、顔がクシャクシャになりかけた。 息子の結婚式の時もそうだったが、最近涙腺がすっかりゆるくなり、すぐ感動して涙が出てしまう。困ったものだ それにしても、ピアノの世界もしかりだが、母親と娘というものは一体化しているが、父と娘が腕を組んでという構図は、今時結婚式でしかお目にかからないから、尚更なのだと思う。 小さい頃はまだしも思春期になると、どこの家でも親父というものは、疎まれこそすれ、娘と手をとってなどということは、映画の中のワンシーンでしか見ることもないから、こうして緊張して硬くなった父親が、娘と2人で歩いてくるだけで泣けてしまうのは、私だけなんだろうか? 焼津の海を見下ろす小高い教会は、式典が終わる頃に、前面のスクリーンに突然パーッと海が広がるのだ。 その有り様は、絶景!感動そのものなのだ。しかし誰一人として「ワーッ!」という人はいないのが不思議ではないか? 思えば彼女は大井川出身、彼は興津出身。だから、親類縁者一同、海なんか見飽きていて、津波の心配こそすれ、景色に感動など無縁なのかもしれない。 披露宴も四方に海が見える素晴らしい会場なのに、誰も彼も淡々としている〜! これが東京の人だったら、感動で声もないような素晴らしい眺めだった! 披露宴は新婦の彼女と連弾をした。曲目は私の十八番(オハコ)である"冬ソナ"である。今回は3曲をメドレー。感動したのは誰よりも私自身だったかも?である。とても良い思い出になった。 結婚式とは良いものである。子供の頃から知っている生徒が、一人前になっていく姿をこれから何度と見られるかと思うと、"教師って素晴らしい職業だなぁ!"と嬉しく思うのだ。 自分の子なら一人っ子だったから、こういう感動は後にも先にも一回だけなのだ。 何度も目をウルウルさせたが、唯一残念だったのは、楽しみにしていたお料理を胃が治りかけていたところで、あまり食べられなかったことだ。 それに披露宴が終わるや否や、余韻もさめやらぬ中、トイレで着替え、新幹線に飛び乗りレッスンの為、東京へ早々に向かった。(確か息子の結婚式の時もそうだった?) 仕事はめったなことでは休めないから、ピアノの先生とは因果な商売である。 次に続く結婚式は、Mちゃん?Tちゃんかな?頑張ってお相手を探さなければと、使命感に燃える先生だった。 |
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