September/'04

’04/9月

2004年09月25日

9月20日は敬老の日だった
八十歳を越えた私の両親も、主人の両親もお陰様で元気でピンピンしている。
健康だということに甘え、中々仕事が忙しくて会いに行けない。
神奈川県なので遠くもないのに、春も秋のお彼岸も夏休みさえも行かれないから、親不孝だと思う。
親はいつまでも不死身だと思っている自分たちがどこかにいる。私の両親は姉夫婦が、主人の両親は弟夫婦が、庭先に住んでいてくれるのも、どこか安心材料なのだろう。
敬老の日くらい、ゆっくり尋ねていかねばならないのに、今年も行かれなかった。
ごめんなさい!
敬老の日といえば今月初め95歳になる伯母が他界した
練馬の病院だったので、レッスンの合間を縫って病院に駆けつけた時は危篤で、もう意識が無かった。
普通95歳なら、誰もが天寿を全うしたと思うだろうが、伯母に関しては残念としか言いようがない。
母の姉であるこの伯母は、実年齢とはかけ離れた若い魂の持ち主だった。
伯母は作家だったが、70歳過ぎてから、娘時代に弾きたかったピアノを購入し、その昔から私がピアノ教えていたのだった。
画家だった伯父に油絵を習い、その後、伯母にピアノの手ほどきをするのが、私の学生の頃からの仕事だった。
75歳にもなると、指も思うように動かないのに、懸命にツェルニーを弾き、指を慣らしながら好きな歌を歌ってピアノを弾いていた。
今思うと、これはまさに実年ピアノの走りだったと思う。
90歳を過ぎ、現在に至るまで、政治に強く関心を持ち、ライフ・ワークである反戦運動をペンをもってしていた。
病院の枕元には、新聞の政治欄の切り抜きが散乱していた。
私が伯母を尊敬していたのは、小説家で反戦家だっただけではない。
伯母は決して人に『おばあちゃん』と呼ばせなかった。
「私は自分のことを『おばあちゃんはねえ...』という人は大嫌い!」というのが口癖だったからだ。
常に勉強していたし、やりたい事、やるべき事が山とあるのに目も耳も思うようにいかず、イライラしていた。
それだから我々のように五体満足で、丈夫な目や耳、手足があるのにぼんやり目標もなく、謙遜して「もう年だから」などという仲間の老人も、若い人も許せなかったのだと思う。
そんな伯母と会う時はいつも緊張していた。
どんな時も前向きにを持って、日々向上している姿でいなければ、伯母に会う資格は無いという気持ちが常に働いていた。
伯父亡き後、ヘルパーさんの手伝いを受けながら、独り暮らしで立派に生きていた!
いつも手紙で、これからの世界情勢を憂い、心配していた。呆ける事などとは無縁の孤高のプライド高い伯母だった。
「退院したら、またピアノを弾きたい!」と言っていたのに、忙しくあまり尋ねてあげられず、それこそ悔いが残った。
伯母の遺体は、本人の意思で病院に献体されてしまったので、お葬式もなかった。
いつまでも若くいるということは、肉体だけの意味ではないということ、生きるという意味の深さ、何のために生きているか?という事を教えてくれ、「最後まで死ぬまでやりたいことが、やるべきことがいっぱいあるのに」と叫び続け他界した伯母の魂を、その血を少しでも受け継いでいたのなら、時折弱音を吐いてしまう自分を、これではいけないと戒めている。
自分としては、随分年とったと思ったけれど、伯母の"のびちゃん!まだ若くて生きられて羨ましいよ"という声が、天上から聞こえてくるような気さえするのだ。
伯母を追悼する意味で、彼女のエッセイ"稲の花U"より、抜粋を紹介します。
天国できっと喜んでくれるに違いないという思いを込めて。

『ブッシュの核便用発言に怒り』
桜の季節になりました。病院の窓から遠い桜が見えます。
この前、好戦アメリカ・ブッシュ政権の、戦争しかアタマにないみたいな教書とかに腹をたてていたのですが、こんどは、「核戦争」です。日本中どこも静かなので−病院のなかにいるせいでしょうか−、わたし一人で不安がったり憤ったりしているのかと思っていましたが、やっとこの前の『思想運動』の前照灯欄で「七か国に対して核使用」のゴーサインまで出した、ぜったいに許せない方針だ、とありましたので、わたし一人の、新聞の読み違えではないと知りました。そして「戦争反対、戦争協力も反対」に「核戦争ゼッタイ反対」を書き加えなければならないと思いました。−原稿といっしょに送られた手紙より)
三月十日付の新聞(『朝日』)を読んで驚いた。ブッシュ政権は軍部に対し「核使用計画のシナリオ策定を指示した。−戦場などを想定した小型核兵器の開発も検討すべきだ」と命じた、という。まさか、と思うような記事であり、新聞も「本当なら世界にとって大問題」と書いている。十一日付の新聞によると、「イラクなど、ならず者国家の大量破壊兵器の脅威に対する先制攻撃も辞さないとするブッシュ政権の姿勢が浮かび上がる」とあった。「冷戦時代より生物化学兵器の脅威は増大しているから、非核保有国への核不使用宣言は時代おくれになりつつある」と、「時代おくれ」という表現を使っているのだから、「まさか」でなく、「本当」なのだろう。
「イラク攻撃には法的根拠がある」と米国務次官も述べている。「フセイン政権を打倒するためさまざまな方策を検討している」とも。なんとまあ、アメリカから聞こえてくるのは、戦争の話ばかり...。その上、核の使用である。そして「世界で唯一の被爆国」である日本のどこからも「核戦争反対」の声が上がってこない、わたしが病院にいるからか、とも思うが、メディアがそれを伝えないのか。「三たび許すまじ原爆を、世界の上に」という歌をまた大声で歌いたい。「人類が絶滅する前に」ということばを思い出す。
                   <エッセイ(90才代)より>




2004年09月18日

時間と気持ちにゆとりが出来ると、まず真っ先にやりたかった事は映画鑑賞だ。
しかし、差しあたって今見たい映画も無く、また、わざわざ夜のレイトショーまで出掛けて行く気力も体力も無いので、自宅で時期を外して見損なった映画をビデオで見るのだ。
今週はDVD3枚を東京に持参し、立て続けに見た。
スタジオは、レッスンが終わるとする事がないので、結構自分の時間がとれる。
テレビの前にドーンと座って、さながらテレビッ子に変身なのである。
今週は"耳に残るは君の歌声""ビューティフル・マインド""コレルリ大尉のマンドリン"の3本立てだった。
いずれも文芸作品だが、やはりなんといってもラッセル・クロウ主演、当時話題の"ビューティフル・マインド"に感動だった。
この映画はアカデミー作品賞受賞の感動大作である。実在の天才数学者の主人公が、ノーベル賞を受賞するまでの「天才と狂気」の間をさまよう物語を、サスペンスタッチで描いているのだが、「数」に魅入られ自信家で、自己中で、人と接する事を極度に嫌っていた主人公が、妻の愛によって人間としての本来あるべき姿を取り戻していく過程が素晴らしかった。
この映画を見たことがある方は「今さら...」と思われるだろうが、名作はやはり名作なのだ。
"耳に残るは君の歌声"はロシアで第二次大戦中、ユダヤ人の父親と生き別れた主人公が、父親を探してひたすら苦労する話だ。ユダヤ人迫害のシーンも多く、全編暗く、重苦しくて、救いようがないのが残念な作品だった。
主演女優も暗いので、なんだかどんより重い印象の映画であった。
それに対して"コレルリ大尉のマンドリン"は、主演女優ペネロペ・クルス、ニコラス・ケイジだけの事もあり、華があった。
第二次大戦中、イタリア、ドイツ同盟軍に占領されたギリシャを舞台に、音楽好きの人間味あふれる占領軍のイタリア人「コレルリ大尉」と統治下にあるギリシャ人のペネロペ・クルスとの愛の物語である。
こちらは、ギリシャの陽光あふれる景色を舞台に、マンドリンの音楽が響き、戦争最中でも救いのある音楽や美しいシーンが多々あり、良かった。
偶然にもこの3本が、皆ロシア、アメリカ、ギリシャとどれもが同じ時代だった事に不思議な共通点を見出した。
たまたま見たい映画を、それぞれピックアップしたのに、いずれも第二次大戦中の話だった。
どの作品も、戦争に運命を翻弄され、迫害され不当な扱いを受けつつも、強く逞しく、力強く生きていくさまには胸打たれるものがあった。
決して自分を見失わず、愛(夫々、夫婦愛親子愛男女の愛の違いはあっても)を貫く生き方は感動であった。
映画を見て感動する場面は、人それぞれだろうが、感心させられたのは"コレルリ大尉のマンドリン"で、ペネロペ・クルス演じる主人公の父親が恋に落ちた娘に向かって言う言葉だ。
「恋とは一時的に襲撃に襲われるようなものだ。地震の様に揺れては、やがて治まる。治まったら考えるのだ。二人の根があまりにも深く絡み合っていたら、別れる事はもう不可能だ。なぜなら、それが愛というものなんだよ。愛は胸の高鳴りや息苦しさや抱き合う事じゃない。人は自分に言い聞かせる「ああ、私は恋をしている。」そういう恋が燃え尽きた後、後に残るのが愛なのだ。それが真実なのだ。」
この年だから、もう恋に落ちることは無いにせよ、若い人には是非この真実とやらを知って欲しいではないか?
また、とりわけ私は"ビューティフル・マインド"で数学者の主人公が、ノーベル賞授賞式で苦労を掛けた妻に捧げる言葉に涙した。

「私は数を信じます。理を導く方程式や理論、一生をそれに捧げて、今問うのは、論理とは何か?理の定義とは?答えを追って私は理学的、数学的な世界を旅し、幻覚にも迷い、戻りました。そしてついに学んだのです。人生で一番重要な事を。謎に満ちた愛の方程式の中に『理』は存在するのです。今夜、私があるのは君のおかげだ。君がいて、私がある。ありがとう。」

私の年齢としては、理想の夫婦愛の素晴らしさを映画の中で目の当たりにした。(これはノンフィクションの映画である。)
私自身を振り返っても、忙しく自分中心に毎日生きていると「君がいて、私がある。ありがとう」と感謝される晩年とは無縁な事は確かである。それは私の方の台詞ってわけである。
「あなたがいて、私がある。ありがとう」と言って死ねたら本望だが、どうも私の方が長生きしそうである。
同い年だし、芸術家はどうやら長生きらしい。多分好きなことをやっていられるからで、会社勤めのストレスとは比較にならないだろう。
"あげまん"ならぬ"さげまん"の私としては心の痛む台詞だった。
せめても伴侶がノーベル賞を授賞するような、世紀の大物でなくて普通の人だったことに感謝しなくては。




2004年09月11日

今週は、引き続きのんびり出来た。
しかし、まだ若い頃の様に"さあ!!次は秋もがんばるぞ!"という意欲にはいま一歩だ。
というのも今年は受験生がいっぱいだからである。
血気盛んな、若かりし頃5〜6歳の幼児のグループレッスン作った生徒がすくすくと育ち(ピティナに育てられたかな?)、最終的には音楽と離れられない子供達に成長し、その子供たちが今年仲良くそろって高校3年生なのである。その数と言ったら目が回るくらいだ。
秋の推薦入学、そして春、狭き門の国立を目指す子供達を入れると、うーむ(汗)気力だけでなく体力が必要だ。こうなったら、少し秋冬に余力をとっておかねばならない。
残念な事は、小6の時にピティナで全国大会「金賞」を取った子が、"自分のやりたい事がある"と既に高校2年生最後の発表会で離れていった事である。
あれだけのテクニック,音楽性,感受性は"勿体無い"の一言に尽きたが、本人が将来やりたい事をはっきり提示して来たのであきらめなくてはならなかった。
友人の先生方とも"楽しみにしていた生徒に進路変更されると、がっくりくる!"とよく話をするが、我が子さえ思い通りに行かないのだ、人の子なら尚更の事。常に覚悟はしておかないといけないと思う。
逆にいい加減で、ろくすっぽ、まじめにやっていない子供に、突然音楽の道に進みたいと言われた日には焦るなんてもんではない。うれしい悲鳴だが、基礎力の弱さに、指導していた自分を恨まねばならないことになる。
そんなこと考えると、思春期で人の言う事を全く聞かない子供でも、決してあきらめたり油断したりして教えてはいけない、などと思う今日この頃である。
さて次のニュースは、ロシア・モスクワの青少年のためのショパン国際コンクールである。
準備万端とはいかないまでも、飛行機のチケットも準備したし、9月12日からの渡航を楽しみにしていた。
しかし、8月末ロシアで飛行機がテロで2機墜落し、その上だめ押しにモスクワの地下鉄自爆テロである。気の小さい私はもうビクビクものである。
大体、国際コンクールを受けるほどのレベルに、まだ到達していないのに、あれよあれよという間に、なんだか運良くトントン拍子に、本人も私も思いがけない国際コンクール出場権利獲得であった。
しかし、まだまだ日本で勉強する事が山とあるのに、ロシアに行って自分の力を試すところまでいっているはずもない。ただ、せっかくのチャンスだったし、ロシアに行って世界の水準を"百聞は一見に如かず"で目の当たりにしたら、きっと何らかの収穫に違いないと信じ、また海外の文化や風土、空気に触れるだけでも彼の将来に有意義に違いないとも思い渡航を決めたのだ。
しかし、このテロである。受験生を残し、2度と帰って来られない事になったらどうしようと思うと不安ではないか。まあそれだけではない、単純に命が惜しいのである。
ロシア・モスクワといったって広うござんす。とは言うものの、文化や空気に触れるムードでは、今のモスクワ自体ないではないか?
あー!何と日本は平和ではないか?
結局、みんなで相談の上、今回は断念しようと決めたのである。
しかし、ほとぼりが冷め始めると、時期尚早だったかな?と後悔していた頃に、今回のロシア学校占拠事件である。
まだモスクワも"自爆テロの危険あり"で厳戒態勢である。外務省から渡航注意勧告が出されている。
キャンセル代をだいぶ払ったがキャンセルしておいてよかったと胸をなでおろす。聞けば、2万人もの外国人が渡航を中止したとの事だから、我々の決定も無理からぬ事だったと思う。私は元より、生徒の体に若しもの事があったら大変である。残念だが、今回はこういうだったのだと思わずにはいられない。
かつて10数年前まで上野精養軒で、ピティナの全国大会パーティーがあった頃である。
パーティー開会の祝辞第1番目に、作曲家の三善晃先生だったと思う。いきなり、開口一番、「皆さんは、今世界でどんなことが起きているか知っていますか?どれだけの人が、こうしている間、死んでいると思いますか?」と強く戒める口調で語られ、祝賀ムードが一変したのを覚えている。
要は、"こんなピアノのコンクールの成績で喜んだり、悲しんだりする事が出来る平和な日に居る今の自分達を、有難いと思いなさい"という事を言われたかったのであろう。
小さい子供達は、まるで叱られた様に感じたかもしれないが、本当にその通りである。
平和な自分たちの境遇に感謝すべきなのだ。
それに、テロや戦争は対岸の火事と思っていたら、今回の事件である。
せっかく楽しみにしていたコンクールにいけない羽目になったではないか?
それにしても、イラクもチェチェンも結局は石油の利権をめぐる国家間の争いかと思うと、それに巻き込まれる弱い子供達は何と不幸なことだろう。
人間は、生まれる場所も時代も選ぶことは出来ない。今のイラクやロシアに生まれていたら、ピアノどころではなかっただろう。
(中高生には『戦場のピアニスト(ビデオ)』を是非見てもらいたい)
奇しくも今日9月11日は、あのニューヨーク同時多発テロから3年目のその日である。
日本には"受験戦争、就職戦線"という言葉はあるが、命を取られる危険など皆無だ。
平和な国に生まれ、ピアノで一喜一憂出来る時代に生きている事を常に感謝し、毎日を生きようではないか!!




2004年09月04日

今週は本当にのんびりした、といってもレッスンは今まで通りだが、レッスンが9時頃終わることが出来たから、夜は普段読めない本をじっくり読んだりも出来た。
真夏日〜初秋の気配がする8月最後の週は、家族サービスに徹した。
まず、最初の3日間はほとんど本を読み、ごろごろ寝てばかりいて、体を休めていたのだが、週末は家族と食事も出来たし、久しぶりに買い物に出かけ、皆の欲しいものを買うことも出来たから有意義に過ごせたと思う。
そんな中で、毎度のことだがコンクールが終わる度、周囲から気になるノイズだ。
そのほとんどがコンペの結果に対する不満の声である。私自身、結果に満足で何も文句がないか?といえばうそになるのだから、どんな立場の人でさえ、全員何かしら不満や言いたい事の一つくらいあるのは確かだ。
しかし結果だから、仕方ないのである。結果というのは、どうこういうものではなく、受け止めるものなのだと思っている。
音楽オリンピックではない、タイムや飛距離ましてや、得点を競う運動とは違うのだ。
芸術というものに、点をつけること自体が間違いなのだということを承知して、コンペに参加することが大切だと思う。
ではなぜコンペを受けるのか?それは手段・目標であって目的であってはいけないのだ。
何の目標か?それは個々人によっては、テクニック補強の場であり、精神鍛錬の場であり、苦手な曲を克服する機会であるべきだし、ある期間の中に曲を仕上げる練習の場であり、得意な曲を評価して貰い自信をつける場でもあるべきなのだ。
その目的を明確にして、最初から親子、先生ともにコンペに参加しないと、結果に一喜一憂して振り回されることになる。
審査をしていてつくづく思うことは、いろいろな考えの先生方がいらっしゃることだ。
自分に良い評価をくれた先生はよい人で、悪い評価をくれた人は音楽を分かってない人と思いたいのは人間として当然の事だろう。
自分を否定したら、前に進めないのだからそれでよいと思う。いい意味で自己中な事が芸術家の条件でもあるからである。
誰もが、自分が1番と思っている世界だから、やっても来られたし、これからもやっていけるのだ。
そうなると全国大会の金銀銅も、本選の入賞、落選も、ある意味人気投票だ、くらいに思ったら良いではないか?
しかし自分でなるほどと納得した点、反省すべきは反省し、絶対譲れず反省したくないところは反省せず、審査員のせいにしてしまい、自信を失わずにいたら良いだろう。(決して投げやりに言っているのではない。)
「あの先生方、うちの子の良いところを分かって下さらなかった。」と思って結構ではないか?
何も聖人君子の如く謙虚に微笑む必要もないのだ。しかし、私も含め、回りが悲しく思うのは、それを人目もはばからず、公言してしまうことだ。そういうのを耳にするのは、心地よくないし、寂しいことだ。
オリンピックの中でも、一番芸術性を帯びている体操で、ロシアの選手が素晴らしい演技をしたにもかかわらず、低い得点に観客の怒り、ブーイングが5分も鳴りやまず、次の選手が演技出来なかったそうだ。
その時選手は、観客に「どうか皆さんやめてください。」と体でアピールして、観客を鎮めたとか。
感動ではないか?主観の相違かで点が低くても、出てしまった評価は、くつがえらないのだ。
悔しかったのは、観客より当の本人だったに違いない
しかし、結果にいくら文句を言ったところが、翻るはずはない。そうなったら結果を受け止めるしかないのだ。
決して彼は、その結果に満足したとは思わない。しかし勝負の世界だから仕方ないのである。笑顔で観客に手を振り、入賞もせず消えて行った彼を、皆忘れはしないに違いないし、彼はこの悔しさとそして観客の声援を励みとバネにし、次に繋いでいく筈だ。
音楽ひとつとっても、人の心に響く音楽は、微妙に違うから、全員が同じ感動を持ち、同じ考えで同じような点を出してくれる訳にはいかない。
そこには、自分の演奏を好んでくれる審査員との相性が良くなくてはならないが、審査員は選べないのだからそうなると「運」という訳である。
コンペは実力でなく「運」か?一番強くそう思っているのは、当の審査員の先生方かもしれない。
私もたくさんの立派な先生方を知っているが、口を揃えて、(また、良い成績を出されている先生ほど)今回は運が良かったおっしゃる。謙遜かもしれないが、その日頃のお人柄から、ウソでない事は証明ずみだ。
「運を掴むのも実力のうち。」というではないか?それが単なる運だけではないことは、回りも認める所だ。実力無き人には、運もないからである。
言いたいことは一つ。結果はしっかり受け止めること、人の成功や幸運を心から褒め讃えられる人間でいたいではないか?
しかし、決して卑屈になる必要は無いのだ。自分の音楽が1番だと思う事は大切だ。さらに努力していけば、必ず運の女神が、次はあなたの番よと、微笑むはずと信じていようではないか。
こんな時、あのフジコ・ヘミングの言葉が心に響く。

  −いくつになったも、夢に向かって進めばいい。
   今よりよくなる、前進してみせるって気持ちを胸に秘めて。
   私も明日こそ、来週こそ、もっとうまい演奏ができるといつも信じていた。
   そう信じていると、不思議なことにそうなるものよ。


  −神様は、その人にとってよいことをしてくださる。
   私たちにも、そのことがいずれわかる時がくるはず。
   自分では不幸だと思っていても、必ずしもそれは不幸ではないし、
   逆に、いま幸福だと思っていても、それは真の幸福ではないこともある。
   神にすべてを委ねていれば、本当の意味がいずれわかる時がくるわ。







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