Aug/'16
’16/8月

2016年8月25日

22日、ピティナ全国大会表彰式が終わった。
今年の表彰式は、ニューオータニが工事中なので、高輪グランドプリンス
友人の先生に「行こうよ〜」と誘われていたが、当日は、台風直撃!朝から大雨!がしかしレッスンは、まさかのドーナツで、朝と夜、昼の表彰式はドカンと空いていた。これって行けって事?
生徒も待っているに違いない!元気を出して小降りになったのを見計らいタクシーに乗った。
品川からは、5分歩くのだが、もう湿気と風で髪は乱れ...、こんな日にみんな来てるのだろうか?
いやいや、びっくり!皆様いらしてた。会場周辺には、ドレスアップした子供達が、走り回っていた!
地方の先生方は、審査のまま、4連泊したりしながら、東京に滞在。コンペ終了の最後の夏休みを満喫していた!
いつも表彰式は、クラス会の様に皆と、ワアワア、キャアキャア女子学生の乗りで、ドレスアップした同業者の先生方と挨拶しあうのだ。「今年も会えたね〜みんな元気?」楽しいひと時だ!
そしてパーティー。ご馳走バトル開始である!今年参加が初めてだったうちの生徒達は、波に乗り遅れて、呆気に取られていた。
やっぱり人生サバイバル?私は、ちゃんと要領よくコーヒーまで、ゲット!
そんな時、「先生!」と声かけてきたのは、何とウィーン留学中のSちゃん。学校関係者の招待で、招かれたパパと一緒に、愛らしく立ちすくんでいた。
彼女とピティナで、出会いザルツブルクに演奏旅行したのは、20年前、東京にレッスン室を持ったのも、彼女との出会い!ピティナでは、全国大会常連さんだった。
会場が、広すぎて会いたい先生にも会えないのに、やはり縁があるのだろう!
談笑して、、、「じゃあね!」と、別れたらまた、出口で、ばったり、また「じゃあね!」なのに、またその先出口で、出会うではないか?
クロークの荷物札は、344!またまたご縁な数字!結局彼女のパパのシトロエンに乗り、中野まで送って頂く事に。
9月8日は、南麻布でランチタイムコンサート!!是非行かなきゃである。
さて8月のお盆休みは、なんだかんだと無かったのだが、元生徒家族に混じって団体様で旅行したり、生徒達を泊めてお世話したり、静かになったら、家で助手とデコパージュをしたり、相変わらずジッとせずしているうちに休みが終わってしまった。
デコパージュは、ダメになったランプシェードを再生すべく、ペーパーナフキンを100均を駆使して作ったものです。
もう1つは、助手の作品!謙遜していたが、なかなかの腕前である。
それにしても最近、育ち過ぎ!段々洋服が縮んできている!それにひきかえ、パーティーでナイスバディな先生方に影響され、やはり出来る女は、老けていず、スリム!
よーし、私もジムに行かねば!と早速入会手続きをした。相変わらず速攻である















2016年8月6日

94になる父が、7月28日に他界した。
ピティナコンペど真ん中の明け方だった。神奈川の実家の姉が献身的な介護をしていたので安心していた親不孝な、三女である。
二年前、92まで、車を運転していたが、肺炎で再起不能!寝たきりの宣告を受けながらも、奇跡の復活で、歩いて自力で生活していた。
なので、今回もまたサバイバルしてくれるに違いないと、何処かでたかをくくっていた自分がいたので、明け方の姉の電話にうろたえた、大学で、教鞭をとるもう一人の姉は、その日が、大学の試験日、代わりがいないから、駆けつけるのは夜と言うが、私は取るものもとりあえずと、言いたいところが、やはり、2人くらい早朝呼びつけ、レッスンし、新幹線に飛び乗った。
何しろコンペど真ん中のこの時期である、「仕事をちゃんとやって来い!俺は、今更生き返らん!」と父の声に、押されるが如くやるべきをやり、駆けつけた。
94まで長生きしたのだから、神様に感謝しかないのだが、親は不死身で、長生きするものだと何処かで信じていた、あり得ない浅はかな夢は、打ち砕かれ、父の死に顔に涙が止まらなかった。
「先生のお父様はどんな方?」と言われても一言では、難しい。政治にその一生を捧げ、家族は二の次三の次だった。
父は、鹿児島の空軍鹿屋基地で、特攻隊だった。「明日の特攻隊員を決める!希望者いるか?」と言われ、皆いざとなるとうなだれる中、「自分が行きます!」と率先して手を挙げた。隊長は、それに対し、「お前の様な気骨ある奴は、まだ行かせん!」と死なして貰えず、それから71年間、その命を貧しい、弱い人々の為に尽くした。
三人娘は、母の西欧かぶれか?父が信じらない姿で走り回る中、母と4人で音楽の世界、芸術の中に夢を見て暮らしていた。
なので父がどういう人間でどう立派だったのかを知ったのは、かなり大人になってからで、それまでは、多感な娘達にとっては、野蛮な恥ずかしい存在だった。
「道路に放置された、半ば毛皮になった犬猫を素手で抱え道端に葬った」と、話された時には、汚い!と思うだけだった!!
泳げないで、浅瀬で遊んでいると、川の中州に放り込まれ、しこたま水を飲んだ記憶があるし、「結婚する!」と言ったら、「そりゃあ!おめでとう!万歳!」と言われ、相手は、誰か?とも聞いてもくれず、家庭など一切興味を持たず、人のために奔走し、政治の世界に身を置いて、何度母を泣かせたことか、そんな父が凄い存在で、人間として素晴らしい人生を歩んでいる!と知ったのは結婚してからだろうか?
大学時代の友人が、「のびちゃんは、お父さんを尊敬してたよ!」と言われ、そうだったかもしれない...。
とにかく弱音など吐かず!私が、「もう疲れて死にそうだ!」と言えば、母は、「あまり無理しちゃダメ!」と言うのを父が、「よっし!死んでもいいから、とことん頑張れ!」と言うので、歯を食いしばって、辛い時を乗り越えて来た気がする。それも父の背中を見ていたからだと思うのだ。
父の遺してくれたもの、決めた事は、弱音を吐かずとことんやり抜く!だから、レッスンも休まず、神奈川を三往復して、五日間、通夜、葬儀を、助手の先生方、父兄の協力で乗り切った。
生徒達も期待に応え、そんな中で、何名か全国大会を決めてもくれた!
まだまだ本選は続くが、父が、「骨になった俺より、自分の事、しっかりやれ!」と言ってくれるに違いないとでもやっぱり、弱音は、しっかり吐きながら頑張っているところである。
葬儀では、真ん中の姉が送辞を読んだ。全く原稿なしで、父の偉業、死までの道程を事細かに総勢150名程の参列者の前で話した。
コンペで審査委員長しているが、なかなか原稿なしで、話せない我が身と比べ、姉を尊敬してますます遠い存在に感じた。
葬儀では、上の姉が、父が好きだった、「出船」を真ん中の姉の伴奏で歌い送った。
「今鳴る汽笛は、出船の合図...」には、静岡に帰っても耳に残り、人知れず涙が...、生き別れ、死に別れ、今年は、試練の年である。
海外から、帰った主人が、また海外に戻った時には、さすがに凹んだ
しかし、その後、親の介護で落ち込んでいるという、卒業生の父兄が、「先生にパワーを貰いたくて来ました。」とやってきた時に、自分の立ち位置を再確認して、そうだ、私はみんなにパワーをあげるために生かされてる、と思い直し、逆にパワーが出た。
そうだ、週末には、ハンガリーに留学中の生徒が自身で、オーケストラを創り指揮をする!
チケットを売ってあげなくては、こんな事をしてる場合じゃない。
そしてコンペも本選が続く、凹んでなんていられない!死ぬ気で頑張らねば...と思うのだった。




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